いじめがあれば学校へ行けないのもわかるけれど、
何も、理由のない人は、
なまけじゃないの、ずる休みじゃないの、
といわれるそうです。
学校に、いくことが合う子も、合わない子もいます。
だから、不登校はその子の自己表現であり、
生き方であり、個性です。
それぞれの事情でしょう。
原因はあまり重要ではありません。
ちょうど、美術館に行った子と行かない子といる時、
行かない原因は、ときいても、
行きたくなかったから、というでしょう。
「なぜ行きたくないの」とつっこまれたら、
「どうしてそこまで聞かれなくちゃいけないの」
と言い返したくもなります。
登校するのが当り前とあまりにも思う人が多い社会なので、
不登校すると、ナゼ、ナゼときかれるのです。
原因をセンサクする大人の人は、たいてい、
子どもを学校に行かせたい人、
学校にこだわっている人が多いのです。
行きたくないから行かない、
行こうとしても行けないから行ってない。
それでいいのです。
その子にとって、学校行かないで休むことを心や体が求めたのです。
今の学校のあり方が子どもにとって、
楽しくないし居場所でもないし、
個性をみとめてやっていくところでもないし、
ということが、からんでいるでしょう。
不登校は、なまけだ、逃げだ、ワガママだ、
心の病いにかかったのだ、
と思っている人も多いようですが、
1992年、文部省は、「誰にでもおこる登校拒否」といい出し、
少し、とらえ方もかわってきました。
また、東京シューレの子自身が1989年、
自分達で当事者へ調査をし、
それまで、文部省で出していた、
「怠け」説をくつがえす動きをしました。
この調査は、2000冊発行し、
飛ぶように売れ、新聞報道にもなりました。現在、
「学校に行かない僕から学校に行かない君へ」 (教育史料出版会)
巻末に収録されています。
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